合理的無知

この問題に「正解」はない。「被害を最小限に止めることができそうな対策」しかない。でも、そんなことを提案しても誰からも感謝されない。場合によっては叱責される。だから、みんな黙っている。黙って破局の到来を待っている。
内田樹の研究室 

システムの開発や移行プロジェクトの後半になると、「どうしてこんなことになったんだ!説明しなさい!」と声を荒げる担当者がかなりの高確率で出現してきます。

もちろん、一定規模以上の仕事であれば客観的な立ち位置から進捗を俯瞰する役割も必要なのは承知しています。しかし、あえて無知であることはそんなに容易ではなく、大抵は声を荒げた本人の立場の確保にしかつながらないような介入がしばしばです。後から出てきてミスをつつき、責任者を追求することを繰り返していたら、現場では徐々に問題の火種を拾うインセンティブが失われてゆきます。

冒頭の引用文のように国のレベルでも同じことが起きているようで、身近にこうした事例がしばしば観察されるのも無関係ではないように思えます。政治においては、あらゆる決定には必ずデメリットや潜在的なリスクがつきまといます。どんな政治家を支持しても、その政治家が間違った施策をとってしまう可能性はあるわけです。だから、「僕は政治には興味ないです」「頼れる政治家がいないです」と、どこにもコミットせず、いざ問題が起きたら「ほらね!」と自分の正しさをアピールするのはある種の必勝パターンです。

どちらのケースも、無知であることに合理性があります。無知なのは頭が悪いからではなく、合理的な選択として、あえて「無知である状態」を選択しているわけです。企業内文化でいえば、失敗の報告には褒賞を与える、くらい思い切った仕組みの改革が必要なのかもしれません。