愛知、大阪、岡山

月曜日から土曜日まで丸々一週間の出張。沢山の人に会って色んな話をしたり聞いたり。

最終日は岡山で久しぶりに娘たちと面会。今はもう、じゃあまたね!って笑顔でお別れができます。別れるのが辛いから、もう会わない方がいいんじゃ、なんて女々しいことを一瞬でも考えちゃってたのは自分だけみたいで情けない限り。

お別れ続きの人生だけど、考えてみたらそれ以上の数の出会いがあるから、今を生きていられる訳なんです。今持っている幸運に目を向けないと。

合理的無知

この問題に「正解」はない。「被害を最小限に止めることができそうな対策」しかない。でも、そんなことを提案しても誰からも感謝されない。場合によっては叱責される。だから、みんな黙っている。黙って破局の到来を待っている。
内田樹の研究室 

システムの開発や移行プロジェクトの後半になると、「どうしてこんなことになったんだ!説明しなさい!」と声を荒げる担当者がかなりの高確率で出現してきます。

もちろん、一定規模以上の仕事であれば客観的な立ち位置から進捗を俯瞰する役割も必要なのは承知しています。しかし、あえて無知であることはそんなに容易ではなく、大抵は声を荒げた本人の立場の確保にしかつながらないような介入がしばしばです。後から出てきてミスをつつき、責任者を追求することを繰り返していたら、現場では徐々に問題の火種を拾うインセンティブが失われてゆきます。

冒頭の引用文のように国のレベルでも同じことが起きているようで、身近にこうした事例がしばしば観察されるのも無関係ではないように思えます。政治においては、あらゆる決定には必ずデメリットや潜在的なリスクがつきまといます。どんな政治家を支持しても、その政治家が間違った施策をとってしまう可能性はあるわけです。だから、「僕は政治には興味ないです」「頼れる政治家がいないです」と、どこにもコミットせず、いざ問題が起きたら「ほらね!」と自分の正しさをアピールするのはある種の必勝パターンです。

どちらのケースも、無知であることに合理性があります。無知なのは頭が悪いからではなく、合理的な選択として、あえて「無知である状態」を選択しているわけです。企業内文化でいえば、失敗の報告には褒賞を与える、くらい思い切った仕組みの改革が必要なのかもしれません。

Kids Do(キッズドゥ)に掲載されました

宮崎市で配布されている子育て情報系のフリーペーパーにCoderDojoを取り上げて頂きました。こんな立派なこと喋ったっけ?って感じるほど、記者の方が綺麗に記事をまとめてくださっています。感謝。

「人と違ってても良い」というメッセージはあちこちで発せられていて、言葉としては見聞きしてると思うんですが、(日本社会の)現実は真逆で、組織や共同体への強い帰属と同一化を求められる場面がとても多いと思います。それが常に悪い訳ではありませんが、横並びの(出る杭を打つ)意識も強いような気がします。

プログラミングやそれに付随して学ぶ論理的な思考法はそういう世界から抜け出して、もう一歩広い世界を見渡す強力なツールになり得ます。

画家ってどういう人なんですかね、とその男の人に聞いた。毎日、しかも一日に二十時間、絵を描き続けても飽きない人間が、画家だ、その男の人はそう答えた。
どこにでもある場所とどこにもいないわたし – 村上龍

CoderDojo 宮崎

3/2は高千穂小学校でコーダー道場を開催してきました。参加してくれたニンジャ(子どもたちのこと)とその保護者の方々は勿論、場所や機材の確保に奔走してくれた人、口コミで参加者を集めてくれた人、当日手伝ってくれた人、沢山の人に支えられて、この教室が埋まってしまう熱気のある会を持つことが出来たことに心からの感謝を。

…写真掲載の許可を貰っておけば良かった(^^;

2年前に宮崎市内に引っ越すくらいのタイミングで構想していたことが、ようやく形になりはじめてきたかも、という気がします。フリーでオープンなソフトウェアの世界から生まれたコーダー道場もまた、フリーでオープンな思想が中心にあります。たまたま今、宮崎で旗を振っているのが私、というだけで、他の誰でも同じようにDojoを開催することが出来ますし、参加してノウハウを盗んでいくのも自由です。否、盗むという表現は当てはまらないですね。良いアイデアやシステムって本来は後から来た人も自由に使って良いはずのもので、周囲を沢山ハッピーにしてこそ、本当に「良い」ものになります(漢字や数字の著作権料って払ったことあります?)。

日本の教育についても一言物申したかったからこそCoderDojoを始めようと思った部分もあるな、と思い出しました。知的な欲求とは、本来、何かを食べたり手に入れたりするのと同じくらい自然なものです。自ら考えて学ぶ力と習慣は確実にその人の生存確率を上げ、人生の質を上げることに寄与します。それを巧みに抑制し、(勉強なんか嫌いだという姿勢がステータスになるような)同質な集団を作ろうとする不気味な圧力を時折感じることがありました。

自分の好きなように色んなことを学んでいいんだよ、というメッセージを届け続ける場が今の日本にはまだもう少し必要だと感じています。

CoderDojo 宮崎 (計画中)

CoderDojo 宮崎 (準備中)

[本] グスコーブドリの伝記

私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。 – 宮沢賢治傑作選

こちらは書籍。映画を見る直前に読了していました。宮沢賢治の柔らかな文章に触れると、いかに忙しなく毎日を過ごしているか、ふと気付かされる気がします。

最近、ネットワークビジネスについて考える機会が度々あります。ネットワークという言葉も、ビジネスいう言葉も本来ニュートラルなものです。彼の本の主人公のように、自分よりも後から来た人たちがもっと立派にもっと活躍できることを心から願えるようになりたい。しかし、普通の人間はどうしても、自分が中心、という欲を持ってしまいがちです。そこをうまくマネージしようという発想から生まれたもののような気がします。

[映画] グスコーブドリの伝記

宮沢賢治の小説が原作ですが、ちょっと違う部分も。なにより登場人物(?)が全部猫ですしね。

宮崎駿のラピュタと似た表現なのかな(あんまり具体的に書くとネタバレになっちゃいますが)。ミクロからマクロへの視点移動と科学の本質とが、心地よく表現されていて、それが故の寂しさも織り混ざりますが、色んな人に観てもらいたい映画です。

アトピーと禁煙

自宅の薬箱に眠っていた沢山のステロイド剤をまとめて捨てました(アトピー性皮膚炎の薬です)。そういえば、20代の後半くらいまでは、かなりアトピーに苦しんでいたんでした。ほんとに綺麗さっぱり忘れてました…(^^;

別に命に関わる病気じゃないんだからいいだろ、という感じで、喘息とアトピーで通院を繰り返す息子の横でタバコを悠々とふかす親が居るような家でした。健康増進法(受動喫煙を防止するための法律)を改正して骨抜きにしちゃった人たちも多分こんな感じなんでしょうね。昨日、薬を見つける直前までの自分も同じだったかもしれません。皮膚や呼吸器が過敏な時に、煙を吸わされるのがいかに苦痛か忘れていました。

健康に限らず、能力でも立場でも、一度手に入れてしまうと、それがない状態からの視点に思いが及ばなくなりがちです。気をつけないと。そして、相当病弱だった自分の体のことも。しっかりメンテナンスしつつ鍛えないと。

中庸

最近、ブログに文章が書けない原因を色々考えてるんですが、やっぱり何を考察しても全ての結論が「中庸」に戻ってきてしまうからなんだと思います。

お金儲けは必要か?と問われれば、お金に囚われるのも格好悪いし、お金から逃げるのも間違ってると思います。お金を媒介せずに出来ることが増えてるのも事実だし、お金がないと困ることも当然あります。「ほどほどに」が常に答えになっちゃうんですね(^^;

まあ「不惑」の歳が近づいてきてる感じ?なのかもしれませんが、全ての分子が中性で安定した状態だと、エネルギーが取り出しにくいという問題があります。貧乏のコンプレックスに突き動かされて頑張ってた20代に戻りたいとは思いませんが、現状に甘んじがちな自分もはっきりと嫌悪すべきだと思います。

という結論すら、ほらやっぱり「中庸(バランス)」。安定感を長所と捉えて少しずつ軌道修正しながらやっていくしかないですね。。少しずつ。

Takachiho.rb #23

先日の、Takachiho.rbで考えた問題です。


以下のような配列があります。

var arr = [1,2,3,4,5,6,7,8,9,10];

この中から1つの要素をランダムに取り出すコードは以下のようにかけます。

var v = arr[Math.floor(Math.random()*10)];

では、ここから3つの要素をランダムに重複なしで取り出すにはどうしたら良いでしょう?

もともとRubyの勉強会をやりたくて立ち上げたんですが、今は言語・フレームワーク一切問わずという感じの緩やかな勉強会になっております(^^;

解答例は以下。
続きを読む Takachiho.rb #23

[本] 車輪の下で

あなたとわたし、我々も、あの子にいろいろとしてやれたことを怠ったのではありませんかな?
http://bookshelf.lmlab.net/books/4334751458

1ヶ月前に読了した本ですが。不思議な余韻が残る一冊でした。人が人を救う、という考えの傲慢さがやっと少し理解できる年頃になってきたような気がします。自分の力量のなさを悟った、というと諦めムードみたいに聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、今やれることを淡々とやって歩を進めよう、という心持ち。

高校を出てもう20年近く経ちますが、ちょうどその20年前を思い出させてくれる本に、高校を卒業した地で出会って読んだというのも、ちょっと不思議な感じ。