ここにおいで

週末は2日連続で青島のヨガレッスンに参加してきました。恐ろしく体が硬くて恥ずかしいんですが、ここでたじろいでは、将来がますます心配。ということで、勇気を出して不退転の決意で参加(大げさ)。

東京や大阪の生活にも魅力が沢山あります。何度も書いていますが、田舎に比べて住むメリット(特に収入の十分な仕事)が多いからこそ人が次々と集まり都市が形成されている訳で。でも同時に、「そんなに固まって住まなくても」とも思う部分もあって。海と山が身近に感じられる街に住むのも良いものですよ。「ここにおいで」と本音で素直に言えるような拠点を今度こそ作ってみよう。

神楽とアジャイル

忙し過ぎて目が回る〜などと言いながら、この一週間で大阪に行ってゴルフして、海辺のスタジオでヨガを体験して、昨日は世界農業遺産の棚田で田植えをしてきました。冷静に振り返ると、結構休んで(遊んで)ます…!

田植えの後の直会で、神楽の伝承に関する興味深い話を聞くことができました。書物に書かれた舞い方よりも、師匠が舞うその姿が正しい伝統である。神楽には単一の正解がある訳ではなく、その時代、その人々によって少しずつ姿を変えながら受け継がれるものである、と。ドキュメント(書物)も必要ですが、ソースコード(実際の舞姿)により重きを置き、本来の仕様よりも現実の要請に応じた柔軟なソフトウェアの変更を是とするアジャイル開発の姿勢と共通するものを感じます。

多重夢

寝室のベッドで深夜に目覚める。真っ暗闇。立ち上がり手探りで照明のスイッチを押すが、明かりがつかない。「停電?」いや、カーテンの向こうの窓からはうっすらと外の光が漏れている。少し目が慣れてきたので、暗いままの部屋を歩きトイレに向かったところで現実と粒度が異なることに気がついた。「なんだ、これは夢か」ベッドに戻って目を瞑れば、ここから抜け出せることを知っている。

ベッドに戻る。

再び目覚める。今度は現実の夜のはず。しかしまた明かりがつかない。あるべきはずの場所に扉がない。どこにも出られない。「これも夢か」またベッドに戻る。

再び目覚める。

しかし、目覚めた先もまた同じ暗い寝室…。

結局、夢の中を何周したか分からなくなったところで、本当の朝が来て目を覚ましました。合わせ鏡のような不思議な夢でした。

学校で習わないこと

目の前に提示された問題以外に考えを巡らせない、という訓練に於いては未だに日本の教育はうまく機能しているのだな、と時々感心します(学校だけでなくメディアや政治も同じ方を向いているかも)。「そこは習ってないから」という言い訳が至極正当なものとして認識されているように感じられますし、先生の指導した以外の方法で問題を解いたら減点された、という話も耳にします。

前線の兵士が「なぜ戦争をするのか?」なんて問い出したら収集がつかなくなり全滅してしまうような時代に於いては有効(ある種の必要悪)だったかもしれませんが、この仕組みの弊害が近年あちこちに現れているように観察されます。親、教師、直属の上司が与えた枠組みを超えて俯瞰して思考するという概念を持たない(持てない)ようにする訓練を粛々と続ける人々。

「局所解」という言葉を何度か使って来ました。なんとなく今いるところが正しそうで、周囲はどれも間違っていそう、そんな感じがする場所。他が全てダメというのも、ここが最適解ではないからダメ、というのでもなくて、それを俯瞰できる思考さえあれば、どうにかなってくんじゃないかな、ということ。

…思いがけずシリアスな話題になってしまった(^^;

週末は従兄弟の子どもたちを連れて、日之影の恋和神という名前のコンサートに。新緑の眩しい廃線駅と、色とりどりの花が咲く棚田。冷たい湧き水、暖かい料理に、どこか懐かしい音楽。久しぶりに日光をたっぷり浴びた素敵な一日でした。

今はもうない

「そう、僕はね、なかなかずるい。矛盾を含まないものは、無だけだ。矛盾を含んで洗練される。ちょうど、微量の炭素を含んで鉄が強くなるみたいにね」
森博嗣 今はもうない

連休の初日は、大切な人の誕生日。ケーキを飾ったりとか、なにもせずにただちょっと思い出すだけ。来週は祖父の命日があるけれど、ここも特に予定なし。思い出してるだけマシな方で、ちょっと違うことに夢中になっていると簡単に忘れてすらしまいます。

薄情な奴、と思われそうですが、もし逆の立場だったら、お墓とか仏壇の前でウジウジしてないで何か面白いこと探しに生きなさい!って追い出すんじゃないかな。

鳥たちの歌

去年の春も西都原を訪れていたみたいです。今年は桜は見逃してしまいましたが、菜の花がとても綺麗でした。今朝は(桜で有名らしい)垂水公園を目指してみたんですが、自転車では無理でした…。Google Mapが出した経路がもの凄い山道(無舗装で倒木だらけ)で自転車を抱えて進む羽目に。途中でギブアップして引き返してきました。一昨日からの筋肉痛もあって、帰ったらベッドに倒れこみ、気がついたら夕方(^^;

村上龍の小説に「暗く反省しても誰もついてこない。楽しんでいる奴が勝ちだ」ってセリフがあります。道を間違えても、引き返してる間に野鳥の声が聞けるし、吹き抜ける風は心地よく感じられます。まあこれはこれで良かったじゃん、って思えれば、どんな人生でもそこそこ楽しめるはず。時々落ち込むこともあるけれど、前向いて行きましょう。

追記:タイトル修正しました。前のタイトルと文中の引用は村上龍の「69」です。

IchigoFarm

先週末、日南のとあるいちご農家さんのところにお邪魔してきました。これを書いている今は高千穂に居ます。

大きな夢を描く、淡々と知識を増やし技術を磨く、時には全力で遊ぶ。魅力的に映る人って、この3つがうまくバランスしてる人なんだと気が付きました。否、バランスの崩し方が絶妙なんです。戻ってくるべき芯をしっかり持っている、ということなのかな。

続・人工知能考

シンギュラリティ(技術的特異点)の到来は技術の進化によってだけではなく、同時に進行する人間の思考の変化に依るところが大きいのかもしれません。

技術的な面から見ると、従前のエキスパート・システムが実現し得た限界点を、桁違いのデータ量と計算量(ビッグデータとクラウドコンピューティング)による深層学習から構築されたニューラル・ネットワークが抜き去って行くという構図なのですが、実用面から見ると「情報処理」を必要とする仕事が次々に人工知能主導に置き換わっていくというプロセスです。後者の変化が「技術の進歩」に依って、というよりは「人間が積極的に(人工知能に)仕事を譲るようになる」ことによって起こるような気がします。

簡単に言うと、「コンピュータの判断に任せとけばいいよね」っていう人がこれからどんどん増えるんじゃないかな、ということです。たとえば自動運転なんて、そんな恐ろしいもの…!という意見より、ちょっと楽しみかも、とか、私よりは上手かも、みたいな声が増えてきているような気がします。

人工知能考

Tensorflowの勉強をしています。といってもまだやっとインストールが出来て、チュートリアルの前半に居るところですが…。constant, placeholder, variable,…難しい言葉が並びますが、結局のところ何らかの入力信号に対して、重み付けと回帰的な計算が繰り返されて、一つの出力(結論)が得られるという仕組みに他なりません。

結局のところ、と言うのならば、人間の意志そのものすらそうです。生まれや育ちによって重み付けの回路は異なりますが、何らかの入力に対して出力をする主体であることに変わりはなく、結局のところ「思考」って何なの?という哲学じみた疑問にたどり着いてしまいます。

自身への入力(つまり自分の知り得る限りの情報)が全てではないことを客観的に自覚し、結論を急がない、或いは、敢えて揺らぎを持つ、といった部分がコンピュータの知性に勝る部分だと信じていましたが、その砦すら、凌駕される日もそう遠くないのかもしれません。

…ジェットコースタに乗る列に並んでいるような、少し怖さも入り混じった高揚感があります。とても面白い時代に居るのかもしれません。

レンジでチンする人工知能

近所のホールで開催されているセミナーに石山洸氏が登壇すると聞いて拝聴してきました。主に学生向けの内容だったので、専門的なお話ではなかったのですが、深層学習を統計学の先にあるものと捉え、未来を予測するツールから、未来を創るツールへと進化させようと取り組まれているのだと理解しました。

ただのバズワードではない第四次産業革命の一端を垣間見たような気がします。

The best way to predict the future is invent it
– Alan Kay